野上道男著「魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸」と大阪堺から奈良,伊賀への道

著者の野上道男先生は,私の大学時代の恩師です。昨年NHKの「中国王朝 英雄たちの伝説」というBSの番組で三国志時代の黄巾の乱の原因(2世紀最後のニュージーランドタウポ火山の噴火による寒冷化,食糧難)について解説されるなど 未だに(私が定年近いのに)活躍されていて,この本も含めいつも学ばせてもらうことが多い方です。 ご専門は地形発達シミュレーションなど,直接講義で感銘を受けたのはアンデスの氷河地形と気候変動の話です。つまり自然地理学なのですが,なんで魏志倭人伝=邪馬台国論争の本をだすの?という知る人なら戸惑いがあります。

もちろん,歴史学=文系という感覚がはたらくからですが,それは地理学というものも文系科目にしてしまうのと同じで,学問を文科と理科に分けている我が国の悪しき伝統と言うべきかもしれません。それが間違いであること理解する意味でも,多くの方に是非知って読んでいただきたい本です。

野上先生は「災害は忘れた頃にしかやってこない」と言います。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/nogami/#saigai  これは寺田寅彦の「忘れた頃にやってくる」をもじったものですが,さらに積極的に人間の考え方について考察を含んでいます。つまり,私たちは毎年のように同じ自然災害(現象)が起これば適応(避難や回避)が可能で,災害にはならないという意味(災害とは何か)が込められています。

このようにいろいろ示唆に富んだ,するどい洞察をされるのですが,この本も魏志倭人伝の著者とそのころの人々の地理感覚を,理学的に解いて,かつ日本書紀や古事記の干支による年代記述を巧みに使いながら邪馬台国や卑弥呼の謎にせまるというものです(→こちらが参考になります)。そして,古代の測量(航海術)についても,興味深い話題を提供しています。私も,えーそーなのか。と思い,なんだか古代史に興味がわいて夏休みを利用して関西を旅行しました。

八王子市街の甲州街道追分の真来通る方向

上のカシミールの地図は,私の生まれ故郷八王子の市街,甲州街道(国道20号線)と陣馬街道の追分からの道の方向の延長が,高尾山に向いていることを示すものです。この方向の延長はどこに行くか分かりますか。高尾山でダイヤモンド富士が見えるのは冬至前後です。そう,追分からの甲州街道は,富士山,高尾山を通る延長線として(さらに高尾山は,冬至の日に富士山に日が沈む霊場として)設計されたのです。直線ですから,2点をむすぶのは当たり前ですが,3点となると,そこには意味が生じます。日本のような山国では「道のり」(行程)は,距離も時間も不正確にならざるを得ませんから, 古代にはこのように指標となる独立峰のような山を見て(山当て)測量していた,とくに海上交通(航法)として必須の知識だったというのです。このような目標を通ることを「真来通る」または2つの目標物の間にあることを「真来向く(巻向)」と呼ぶことにするそうで,古代の古墳や遺跡の位置が真来向くで説明できる場所がいくつもあるというのです。

ところで,京都・奈良は東日本(東京圏)に住むものからすると,日本の古都でありはじめは中学・高校の修学旅行で訪れる人が多いと思います。そのコースは当然新幹線で京都を見学し京都から,バスや近鉄で奈良。ということになれていると思います。そして,奈良から世界遺産の法隆寺なんかを巡るわけです。それで,前々からなんだか法隆寺って田舎にあるなと思っていました。しかし,最近さらに世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府堺市)で気がつきました。地図を見てみましょう。奈良は南北に長い盆地で,東側には生駒山地があって,大阪堺の仁徳天皇陵と関係はなさそうだと思いがちですが,なんと,大和川という川が生駒山地をぶち抜いて流れているではありませんか。普通,川の水は低い方へ流れそうなものですが,山に向かって切り通しを作るかのように流れています。これは,生駒山地が隆起してできる前からここに川が流れていたからしかあり得ない,地理では「先行河川」というものです。ですから,古代の人々の往来は,瀬戸内海ー堺ー大和川ぞいー奈良盆地ー斑鳩ー明日香(飛鳥)というハイウェイによるのだと,やっと気がつきました。

百舌鳥古墳群の大仙山古墳(仁徳天皇陵)
すぐ前の堺市博物館のバーチャルツアーで上空から眺めました。
大和川から奈良盆地へ入る

修学旅行などでも,明日香は石舞台古墳周辺の遺跡を散策するコースがあって,昔,何度か行っているのですが,2000年ごろから発見が相次いだ天文図で有名になったキトラ古墳を見学してから,邪馬台国論争で取りざたされる(卑弥呼の墓は箸墓古墳だ説)纒向(巻向)遺跡に行ってみることにしました。もちろん,野上先生の解釈は,魏志倭人伝の地理学的洞察から,邪馬台国は九州の中央の人吉盆地から宮崎平野あたりにあった,です。三輪山と大神神社もはじめてでしたが,古代史への興味がさらに深まりました。

纒向 遺跡のあたりから三輪山と箸墓古墳をのぞむ
キトラ古墳壁画保存管理館。朱雀の実物を展示していました。9月10月には天文図と青龍の展示があります。

キトラ古墳では,壁画の復元のようすがわかり,天文図の資料などを手に入れることができてよかったです。1泊目は近鉄八木駅近くのビジネスホテルしか予約が取れなかったのですが,そこは古代の平城京と藤原京,大坂の難波津からの道の交差する場所でした。ホテルの目の前に芭蕉の「草臥れて宿かる此処や藤の花」の句碑があったりして,運命的なものを感じました。このあたりは,メジャーな観光ガイドブックには載っていませんが古い町並みの今井町や近くの藤原京跡もふくめ,もう一度回るべきところだと思いました。

大阪でレンタカーを借り,いろいろ巡りましたが,何しろ外はあまりにも暑くて,このあと談山神社をへて芭蕉の故郷,伊賀上野(城の石垣はさすがに名人藤堂高虎による)に一泊し,家康が本能寺の変で慌てた伊賀越えの道を通って関宿にでました。今まで,東海道というと新幹線で関ヶ原や米原を通るように錯覚していましたが,鈴鹿峠や関西本線のラインが街道筋であることを改めて知りました。名阪自動車道なるものを通った方が,名古屋から大阪にはこのラインのほうが速いし,歴史的な出来事でもよく使われていることにあとから気がつきました。最後は,桑名城跡を見学して,熱田神宮にお参りし(七里の渡しの跡を見)て,昼過ぎには名古屋から新幹線に乗って東京に戻りました。話が,本の内容からずれてしまいましたが,昔の人の感覚を想像しながら,その土地の「鑑」を得るのは楽しいものです。地理的な見方をまた一つ変えられるきっかけになった先生に感謝しつつ,旅行コースについても紹介しておきたくなってアップした次第です。