曆の語る日本の歴史 内田正男著

日本が世界に誇る偉人というと,野口英世とか北里柴三郎などを思い浮かべます。より理系的分野だと,それほど関心が持たれないからでしょうか,さらに関孝和や伊能忠敬があげられると思います。その関係者の江戸時代の活躍が生き生きと語られている本で,ほんとに面白いです。内田さんは東京天文台で編纂した「日本暦日原典」の著者で,5世紀からの日本の暦日と西暦日(ユリウス暦とグレゴリオ暦)の対応を明確にし,歴史学や文学などにも大きな貢献をしています。いわゆる旧暦とは,中国から伝わった太陰太陽暦で,飛鳥時代から導入され平安時代の陰陽師安倍晴明からは具注暦としてつくられ,貴族階級には必須となりました。そのときの暦法(宣命暦)を代々江戸時代まで使っていましたが,冬至や食のずれが明らかになり,渋川春海が貞享暦を導入します。このときの数学的バックボーンには関孝和がおり,小説「天地明察」にも描かれているように,まず中国の授時暦の導入に失敗したいきさつがありました。それまでの土御門(安部家)と幸徳井(加茂家)の関係や改暦後に幕府天文方が置かれるなど大きな変革だったことなどもよく分かります。そして,麻田剛立の人となりや門下の活躍,中でも高橋至時と伊能忠敬,さらにシーボルト事件にまで至る話は,ほとんど小説を読んでいるような気になるほどです。江戸時代は鎖国でしたが,好奇心旺盛な人々によって天文学や地理学が世界的なレベルに達していたことを教えてくれる頼もしい本です。

この記事を書いてから,江東区東上野の源空寺にある,伊能忠敬,高橋至時,高橋景保のお墓を見に行ってきました。

伊能忠敬の墓

50歳で隠居し,江戸に出た伊能忠敬は,自分より20歳も若い高橋至時を師として,地球の緯度一度の長さを求めるという望みを抱いてやがて実現します。遺言で,墓は至時の隣に立ててほしいと言い残しました。至時はラランデ暦書の翻訳に不眠不休であたり41歳で病没してしまいます。

高橋至時の墓,右に伊能忠敬の墓

高橋至時の長男,景保は父の後を継いで天文方として実務能力を発揮し,忠敬の「大日本沿海輿地図」を完成させたのですが,後にこの伊能図をシーボルトに見せた(渡した)という,いわゆるシーボルト事件で投獄され,病気で亡くなっています。死罪を言い渡されるまで遺体は塩漬けにされ,この源空寺に葬られ,墓石はなくやがて昭和になって立てられたものだそうです。

至時(父)の左隣にある高橋景保の墓

高橋至時の次男,景保の弟渋川景佑は,天文方を継いで,天保暦を作りました。景佑は渋川春海以来の家の養子になりました。渋川春海の墓を訪ねました。品川の東海寺の大山墓地は新幹線のすぐ脇になっていて,代々の墓はあまり整備されていませんでした。

渋川春海の墓
新幹線と渋川家の墓