聖なるラインの信憑性(その3)

天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。
また、持統天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。
鎌倉時代に盗堀された時の記録が残されていたことから、被葬者が確実となった。
写真の人物は恥ずかしながら私の家内です。2019年8月3日,聖なるライン上にて
聖なるラインと呼ばれる,藤原京の中軸の南の延長上に菖蒲池古墳,天武・持統陵,中尾山古墳(文武陵)があり,さらに高松塚古墳,キトラ古墳も含むという流れには,もう一つ,飛鳥から50kmも北の京都山科にある天智天皇陵がほぼ同一経線上にあることが大きな謎となっていた。藤堂かほる氏は,天智陵は壬申の乱直後(672年)には作られず藤原京遷都(694年)後,続日本紀の文武3年(699年)の記事「斉明天皇陵と山科の天智陵を修造した」をもとに,意図的に藤原京の真北に造営され,それは天武・持統政権による律令国家形成のための祭祀対象として,先帝である天智を天極に祀るという意味を持っていたと主張しました1。私は,この天智天皇陵が50kmも離れて藤原京中軸の真北(ずれは50mほど)にあると知って,当時の最新技術を使って測量したのではないか,と思いその方法を探りたいと,このテーマを調べ始めたのです。これにまつわる書籍や文献を渉猟しはじめて2年ほどたちましたが,現在ではこの位置にあるのは偶然であろうと思うようになりました。正確に言うと,意図的に真北に作ったわけではなく,位置を知った上で藤原京を造営したのではないかと考えています。というのは,天武(大海人皇子)と天智(中大兄皇子)のふたりに関係のあった額田王の歌(万葉集)「やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 畏(かしこ)きや 御陵(みささぎ)仕(つか)ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百磯城(ももしき)の 大宮人(おほみやひと)は 去き別れなむ」が,天智陵を前にして詠んだ挽歌であることは確実で,まずこれが文武3年だとすればそのとき額田王は70歳近く2になっていなければならず,山科で過ごしたことが分かる歌もあり3,山科には藤原鎌足(中臣鎌足)の屋敷があり病にかかって死ぬ間際にそこを天智が訪れ藤原の姓を与えた(669年)こと4など,もともと山科にはゆかりがあることから,崩御より前に天智陵の場所は決められていたと考えるのが自然だと思うようになりました5。このような7世紀の歴史,乙巳の変,白村江の敗戦から壬申の乱を経る人物模様,例えば,大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女は天智の子大友皇子の妃になって壬申の乱をどう見,生き残って天武の高市皇子の妃になるとかいたたまれない話まで知ると,変なはなし測量など二の次のような気になります。

地図景観ソフト「カシミール」の可視バードによる
京都大文字山のやや西の山麓に天智陵が位置する

← 京都大文字山から飛鳥耳成山の間の断面図と両者の見通し線
おそらく意図的ではなく,上の図のように奈良から京都の東山までは遮る山がほとんどないので,当時の山当ての手法で天智陵が真北に位置していることは分かっていただろうと思うわけです。その2でも触れたように,当時の天文学(陰陽道を含む)の知識のレベルは相当に高く,おそらく古墳時代から大陸から伝えられた知識を積み重ね,この天智・天武時代に大成したと言って良いように思います6。またこれは倭国から律令国家建国と言うべき事業と軌を一にしているとも言えるのではないでしょうか。
その1で提示した近畿の五芒星の五角形が意図的に測量されてできたとは考えにくいですが,飛鳥から吉野,伊勢に至る地勢や方位などは研究されていただろうと思うのです。例えば大海人皇子(天武)の壬申の乱の進撃コースなど空間的な地理情報として十分把握されていたに違いありません。無論,京都から琵琶湖,若狭,丹後や瀬戸内海,四国,紀伊半島,地図こそ残されていませんが,その空間配置を正確な座標として把握しようと山当てやさらには天体観測も行っていたのではないでしょうか。
今年の夏に若狭から丹後半島をまわる旅行で訪れた鵜ノ瀬にあったパンフレット →


ここで言う聖なるラインの北の延長に若狭の遠敷があります。ここは,東大寺のお水取りの行事に先だってその水が遠敷川からつづく地下水脈を通って送られるという伝説があります。また,南の延長は熊野本宮大社を通って潮岬に達します。遠敷から潮岬までの距離は225km。緯度にしてちょうど2°に相当し,真ん中が飛鳥になるのです。
これが単なる偶然とは私には思えないのですが,ちょっと神がかってきた自分を感じていて,どうしたものかと思っているところです。
- 藤堂かほる(1998)天智陵の営造と律令国家の先帝意識–山科綾の位置と文武三年の修綾をめぐって,日本歴史601,1-15. ↩︎
- 有名な「あかねさす紫野行き・・」の歌は壬申の乱の前で,額田王は40過ぎだったと推定される。 ↩︎
- 「秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ」これも山科(宇治)で詠まれた歌で,当時仮の宮があったことが分かる。 ↩︎
- ここに鎌足を祀る山階寺(後の興福寺)が置かれたが,天智陵に近い場所だったとされる。注5参照 ↩︎
- 森浩一(2018)京都の歴史を足元からさぐる(新装版),学生社,199-213頁 ↩︎
- キトラ古墳の石室天井に描かれた天文図などが証拠。中村士(2018)古代の星空を読み解く,東京大学出版会 ↩︎