聖なるラインの信憑性(その1)         

問題の所在

レイライン(御来光の線)というのがある。日の出日の入りの東西方向の一直線上に山の頂上や寺社がきれいに並んでいて,古代の(昔の)人々が,意図的に配置した意味のある?ライン,というものである。たとえば,上総一の宮玉前神社→相模一の宮寒川神社→富士山-→七面山→伊吹山→大山→出雲大社。これらが同一緯度線上にある(春分・秋分の日の出日の入りライン=ご来光の道)と言われ1,Ray Line(光の道)の意味になっている。また,聖なるラインは,奈良盆地南部にある天武・持統天皇合葬陵や文武天皇陵(中尾山古墳)が藤原京の中軸線である朱雀大路の南延長上に位置していることが,岸俊男京都大学名誉教授によって指摘されていたが,1972年にそのライン上に高松塚古墳が発見されたとき改めて注目され,マスコミによって名付けられた2。さらに冒頭の図は,近畿の五芒星と言われるもので,伊勢神宮や熊野本宮大社,淡路島の伊弉冉神宮といった由緒ある神社が意味ありげに位置している,とされる。富士山や伊吹山,伯耆大山は自然の地形であるから偶然であるが,神社などを意図的に配置することは可能だとは言え,では地図もないそんな昔に測量して決めたのか?という疑問が生じる。古代の聖域である古墳や神社などは,現在のコンビニよりもはるかに多く存在するので,適当な直線を引けばいくつかが偶然その上にのる可能性は高い。なので,こんなのは単なる偶然にすぎない。と言い切れるかというと,そうでもない。実際,はじめに示したレイラインで七面山は,彼岸の日に富士山から日が昇る霊場として日蓮が開いたし,相模の寒川神社もダイヤモンド富士が春分・秋分に見られる場所を選んだと考えられる。すなわち,日の出日の入りの太陽の方向と暦も関わってくる。今日のようなカレンダー(暦)であれば,春分,秋分の日を容易に知ることができるが,古代の人々にとっては,それより冬至や夏至の日の出入りの方向が暦としても重要だっただろう。一年のうちで,冬至や夏至の日の出入りの方向は,多少天気が悪くても一週間ぐらいは変化しないからスカイライン上(山)の位置を観測し特定できる。次の写真は,天文仲間の中嶋さんが,東京町田市にある田端環状積石遺構から冬至の日の日没が丹沢山地の蛭ヶ岳(もっともピラミダルな山)に沈む過程を撮影したものである。

2009/12/23 冬至の日に田端環状積石遺構から丹沢蛭ヶ岳に沈む太陽のようす  撮影:中嶋幸宏氏

つまり,縄文時代人も冬至の日の入り方向を山と結びつけて暦を読み,その場所を祭祀などに使ったと考えられる。以前から,古代のナビゲーションシステムは,山当て測量だったということを指摘しているのは,たびたびこのホームページで紹介している,恩師の野上道男先生(東京都立大学名誉教授)である。グーグルマップや地理院地図で調べれば,奈良盆地や京都盆地(関東平野などでも)で周囲の特徴的な山どうしを結んだライン上(しかも複数の交点)に遺跡や古墳や寺社が位置していることが判明する。これを野上先生は「真木通る」場所と呼んでいる。また,2つの山の延長上に位置する場所を「真木向く」と言うそうである3。地球上の中緯度(北緯30~40°)では,冬至および夏至の日の出,日の入り方向はそれぞれ真東と真西からほぼ30°南か北になる。これと真木通るを結びつけた位置も非常に多い。例の藤原京の大極殿は三輪山と畝傍山を結ぶライン(夏至の日の出日の入り)および天香久山からの冬至の日の出ラインに位置している。困ったことは,古代の文献に,この意図的配置について記録したものがないことである。今年になってたまたまであるが,野上先生が稲城市の市民大学講座で藤原京の設計に関する古代測量について講義4されたのを聞くことができた。藤原京の条坊(ほぼ正確な東西南北方向)はそれに先立つ奈良盆地南部の直線道路,横ツ道や下ツ道をもとに設計されている(としか考えられない)。しかし,これらの設計の方法についても日本書紀などには何の記述もないのである。いったいいつどのようなレベルの測量が行われていて,冒頭の聖なるラインといった配置と,どの程度関わりがあったのか,このテーマを扱っている研究者は多くはないがまとまった見解には至っていないのである。

  1. 上総一の宮玉前神社のホームページhttps://tamasaki.org/goraiko/index.htm ↩︎
  2. 小澤毅(2018)古代官都と関連遺跡の研究,吉川弘文館,98頁 ↩︎
  3. 野上道男(2012)魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸,古今書院,全303頁 ↩︎
  4. 2025年度,稲城ICカレッジプロフェッショナル講座,野上道男「日本最初の都市計画~藤原京と正方位直線道路~」4月から6回 ↩︎

天体写真

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