名古屋旅行~近世編
学校には修学旅行というのがあります。学校時代の思い出といっても結構ぼんやりしていますが,さすがにみんなで一緒に旅行した時の出来事などは記憶として刻まれるのに役立っている(写真も残ってますし)気がします。私たちのころは名所を団体でただ回ってくるだけでした。しかし,教員になった頃からは引率だけでなく,事前学習(国語,社会,理科)をさせたり,グループごとに自主研修で回るのが教育的だということになり,その資料づくりや生徒の作った旅程の検討だの細かい業務が増えて教師もイライラすれば,生徒もあんまり楽しくないような顔で回っているのを見かけたりしますよね。そもそも日本の歴史といっても,いつどこでだれが何をしてそこにあるものがどう使われたか,などという膨大な知識がちょっと学んだだけで身につくわけないですし,この歳になっていくつもの大河ドラマを見て時間や場所,人の関係性までようやく頭に入ってくるようなものだと思います。そもそも,旅行には出かけた先で出会った文物に感動するという要素があるわけで,帰ってきてからあれはいったい何だったんだろうと思って,調べる方が身につくのではないかと,このブログを書くにも行く前より帰ってからネットで調べ,知り分かることが多くあります。近世ですが,江戸時代には庶民の旅もブームになり,道中記や広重の絵などから様子が分かります。とりわけ俳句で有名な芭蕉の紀行文は「旅を栖とす」という芸術に旅を位置づけたとも言えます。竹村公太郎氏の「日本史の謎は地形で解ける」によると,日本人の器用さ→ものを小さくたたむ技術→例:扇を扇子に,筆と硯を矢立て,傘を折りたたみ傘,ご飯をおにぎり,などはすべて歩いて旅行(移動)するために,荷物をできるだけコンパクトで軽くするために行われたものだそうで,なぜなら,日本は山や谷,湿地,河川が多くに街道を車で行くことが出来なかったからだと。電卓,トランジスタラジオやウォークマンなどの発想もルーツはそこにあり,器用さ=小さく詰め込む発想と技術が近代日本の経済発展の要素になったとも言います。前置きが長くなりましたが,まず昔の旅の面影をのこす有松へ行きました。
各地に残された街道沿いの昔のままの古い町並みは,タイムスリップ感が味わえるので観光地スポットになっています。月曜午前の早い時間だったので人は少なかったですが,有松もなかなかの景観で絞り染めの産業地としても有名です。絞り会館でお土産を買いました。古い町並みは200mほどの範囲ですが,田舎の奈良井とか妻籠などより商家が多い,北国街道の海野宿に似ていました。ここから名鉄線を二駅名古屋方面に戻ると鳴海で,下里知足という芭蕉の門人(造り酒屋の主人)がいて,芭蕉が何度も滞在している場所です。誓願寺というお寺にある,芭蕉最古の供養塔(一種の墓)を訪ねました。
さらに二駅もどると笠寺観音(笠覆寺)があり,そこには芭蕉句碑第一号の「星崎の闇をみよとや鳴く千鳥」の句碑があり,いわば父への供養参りのようなもので,見ておきたかったのです。というか,名古屋と芭蕉は切っても切れないような関係があるのです。笠覆寺もこのあたりの信仰を集める古刹で由緒書きや本堂も面白いところでした。雨だし寒く,おなかがすいたので駅前にあったレトロなうどん屋(薄暗い)でみそカツ丼とうどんのセットを食べました。2日目も明治村に行く途中のガストでみそカツ丼で,3日のお昼は名古屋駅のうまいもの街で名古屋コーチン入りみそ煮込みきしめんを,という風に名古屋飯を堪能しました。
翌日の朝は,名古屋の電波塔(久屋大通公園)下にある「蕉風発祥の地碑」を訪ねました。芭蕉は,29歳で江戸に出て俳諧で宗匠となりますが,人の耳目をよろこばすだけの流行の俳諧に倦んで41歳で「野ざらし紀行」や「笈の小文」の旅に出,風狂から蕉風を確立していったと言われています。野ざらし紀行の冒頭句「野ざらしを心に風のしむ身哉」や笈の小文の「旅人と我が名呼ばれん初時雨」などが有名ですね。芭蕉と言えば,おくの細道ですが,笈の小文も読んでみると芭蕉の考えたことなどが小気味のいい文章で分かって面白いです。
犬山のホテルにチェックインする前に,木曽川を渡って鵜沼の旧木曽街道沿いの町並みを見てみたら,ここは更科紀行で芭蕉が立ち寄ったそうで,それを記念した句碑群がありました。2日目は,メナード美術館で葛飾応為(葛飾北斎の娘)の「夜桜美人図」が展示されているので見てきました。NHKの「コズミックフロント」で,ここに収蔵されていることを知りました。いつでも,見られるわけではなく,この時期の所蔵企画展(歳時記花開く春,3/31まで)で展示されています。
満天の星のもと,灯篭のほのかな灯りの下で,歌をしたためる若い女性(振袖すがた)を描いた葛飾応為(北斎の娘お栄)による作品とされています。絹に描いた肉筆画で「吉原格子先之図」とともに暗闇と光を巧みに描いた代表作。応為はこれら表現から江戸のレンブラントともよばれ,小説として描かれNHKの特集ドラマ「眩(くらら)〜北斎の娘〜」になったのを見ました。これで私の応為のイメージは宮崎あおいとして固定されてしまいました。なにより,天文好きにとって星が描かれた浮世絵,として見たくなる逸品だと思います。星は明るさによって5段階かき分けられていると言います。暗い夜空の雰囲気が出ています。今回実物をまじかにみて,やはりその精緻な筆致に驚きました。桜の描き方とか闇の部分のかき分けなど,ドラマにも出てきますが,北斎も美人画はお栄に描かせていたという,くらい美人画は上手です。一説に北斎と長野の小布施(北斎館には行ったことがあります)に滞在していた時に描かれたともいわれるそうで,北斎も富岳図で旅行好きだったに違いなく,ゴッホに影響を与えたり,メナード美術館のほかの作品(ムンクやミロなど)からもインスパイヤされる時間を過ごしました。
美術館で買った絵ハガキをスキャンしました。クリックすると全体が出ます。